淡色の空

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ながめの一日・終幕

今日は皆既月食らしいですね。
つい今しがた、外に出てみたら本当に月が欠けてて、
何だか妙にテンションが上がってきます。
今が冬でなければ、月食を見て一杯やろうかと思ってたんですが…。

さて、それはさておき、今回は再び椛霖。
【ながめの一日】で頂いたコメントがツボにはまってしまい、
そのプロットを拝借して書き上げてみました。
霖之助さんが動物属性のある少女と寝ているのを想像すると、
何だか色々と滾るものがありますね。

さて、それではいつものように以下より~。

(霖之助、椛)


――ぱちり。

よく乾いた、サイズの小さな堅い木を打つような音が響く。

「……ふむ……」
「……うーん……」

まるで禅宗の修行のような静けさだが、その割には少しばかり静けさが足りない。
一つはやや低い、落ち着いた男性の声。
もう一つは、聞いて明らかに少女のそれだと分かる、高く澄んだ声。
思案の色を濃く含んだその二つの声が、木を打つ音と一緒に思い出したかのように部屋に響く。

「……うん」
「……む」

――ぱちり。

少女――椛は、思案の末に一つ頷いて、駒を打つ。
まるでゆっくりと歩くように鳴る駒の足音に、男性――霖之助の詰まるような声が重なった。

「…………」
「…………」

暫し、音の全てを憚るような沈黙が続く。
いつもの無愛想な表情に加え、更に厳しく眉に皺を寄せる霖之助と、真摯そのものの表情で盤面を見つめる椛が、一つの盤を挟んで対峙する。
互いに本気であるが故の、少々張り詰めた感もある雰囲気は、周りから見ている者があれば佇まいを正さなければならない程度のものであっただろう。
だが、その中心にある二人からすれば、この空間は実に心地のよいものであった。
第三者の介在もなく、ただひたむきに己の知略を駒に乗せてぶつけ合う。
それは想像以上に神経と体力を使うものだ。
だがそれ故に、結果がどうあれ、終われば深い達成感に包まれるものでもある。
一つの作品を作っている――そう言えば少々大袈裟に聞こえるかもしれないが、霖之助も椛も、二人がかりで盤面に芸術を作っているのだと断言するのに、些かの迷いもなかった。
そうして、その芸術はもうすぐ、そして着実に完成へと近づきつつあった。

「…………うーむ…………」

――ぱちり。
霖之助にしてはやや珍しい、苦渋に満ちた声が間延びする。
その直後に響くやや弱い駒の音が、どちらが優勢なのかを暗に物語っていた。

「……」

だが、それに椛は先を焦らず、慢心もしない。
――実際の軍対軍の戦闘ならば、ある程度の有利が確立してしまえば、後は流れで押し切れてしまう事は往々にしてある。
しかし、こと将棋に限って言えば、たった一手の慢心が全てを逆転せしめる可能性を秘めている。
そんな場面を、椛は幾度も達成したし、また味わっても来た。
こと霖之助が相手の時は、寧ろ味わってきたことの方が多いだろう。
一見無害そうな顔をしているが、彼は勝負事に関してはそういう隙や弱味を探り出し、そこに全力を注ぎ込むことを躊躇しない。
まさに羊の皮を被った狼なのだ。
故に、焦らずに詰みの手を確実に模索する。
よもや本物の狼である自分が、優勢な今において、擬態する狼に敗北を喫するわけにはいかないのだから。

「……よし、と……」

――ぱしぃん。
呟いて、椛は自信に満ちた一手を指した。
――シミュレートは、幾度も頭の中で行った。
それに対する霖之助の指してくるだろう手も、考えられる限り思い浮かべて並べた。
そうして、ほぼ九割九分は詰みへと持っていけるであろう手を、盤面へと刻み込んだ。

「…………」

その手に、霖之助からの声はなかった。
ただ、この終盤になってずっと浮かんでいた眉の皺が、僅かだが確実に深くなった。

「………………ふぅ」

――どのくらい、霖之助は盤面を睨んでいたのだろうか。
特に持ち時間を定めていなかったので、正確な時間は分からない。
だが、長い長い時間を置いて霖之助が立てた新しい音は、思案の色に染まった息ではなく。
全てを成し遂げ、肩に入っていた力を抜いた時に出るような、安堵ともとれるような溜息だった。

「――参りました」
「……あ――はい。ありがとうございました」

深々と頭を下げた霖之助に、遅れて椛も深くお辞儀をする。
そうして互いに顔を上げると、霖之助は何とも形容しがたい――あえて言葉にするなら、満足の中に悔しさをほんの少しだけ滲ませたような、とでも言うのだろうか――笑みを浮かべて、肩を竦めた。

「いや、今のは完敗だったね。今回は今まで君に見せた事がない戦法を執ったんだが、ああも完璧に受けられると為す術がなかったよ」
「そうですね。今の盤面だけを見るならそうでしたけど……」

今の一局は、椛の勝利に終わった。
だが内容を見れば、勝敗以上に珍しい一局だったと言えるだろう。
まず一つに、基本に忠実な霖之助にしては珍しく、その基本からは大きく外れた陣形で戦ってきたというのが、その珍しいものの筆頭に挙げられる。
彼は『奇策』というものの強さをよく知っているが、それと同時に併せ持つ危うさもよく知っていた。
型に嵌れば強い戦術をとるか、地に足の着いた硬い戦術をとるかと問われたら、彼はそういう時だけ商人らしく、少し考えた上で確率の高い後者をとるような人物だった。
それなのに、今回だけは自信ありげに前者をとったのだから、珍しいと言うに些かの迷いはなかった。
――だが今回に限り、霖之助にとっては奇策の悪い一面だけを切り取ったかのような一局になった、実に不運な対局だったと言わざるを得なかった。

「……実は少し前に、にとりと将棋を指したんですけど、その時に、今の香霖堂さんとよく似た指し方をしてきたんですよ。その時は私が完膚なきまでに負けたんですけど、あんまりに悔しかったのでその対策を練っておいたんです。その経験が生きました」
「……そういう事か。いや、それは僕が迂闊だった」

ぱたぱた、と嬉しそうに白い尻尾を振りながらの椛の言葉に、霖之助は少しだけ、悔しそうな色を濃くする。
椛は知る由もないだろうが、この敗局の原因は他でもない、己が身から出た錆だったからだった。

「……実は、僕も前ににとりと将棋を指してね」
「え? にとりとですか?」
「ああ。珍しく店に来たから、その時にね。……その対局で、今の椛君に用いたもののベースとなったものを使って、僕が勝っていてね。どうやらその時の戦術を、にとりに上手い具合に活用されてしまったらしいね。手の内を知られていては、奇策は通用しないのも当然だった」
「なるほど……。よく似てるけど、お二人以外では見た事がない陣形だったので、『あれ?』とは思っていたんですけど……そういう事でしたか」

それを聞いて、椛は漸く合点がいった。
対局中から感じていた妙な既視感の正体は、明かされてみれば何の事はなかった。
どうやらにとりは、その時の霖之助との対局に負けはしたものの、タダでは転ぶ事なく、その戦術に多少のアレンジを加えて自分のものにしていた、というのが事の顛末らしい。
まるでわらしべ長者のような話だが、同じ手は二度通用しないというのがよく分かる話だ。
――こういう風に、数多存在する将棋の戦術や陣形は、或るものは琢磨され、またあるものは淘汰されていき、よりよいものだけが残っていく。
それこそが将棋の面白さでもあり、また自分こそが新手を作り出そうという意気込みにもなるのだ。

「……じゃあ、ちょっと一息入れた後に、もう一局指しましょう。お願いできますか?」
「そうだな。少し休憩としようか。君と将棋を指すのは楽しいが、同じ姿勢でいるのも疲れるからね」

ぐー、と霖之助は背筋と腕を天へと伸ばす。
ぽきぽき、小気味いい節の抜ける音が、小さく鳴り響いた。
節を抜くのは関節からすればあまり良くはないことだと、外から流れてきた本には書かれていたが、このえもいわれぬ気持ちよさは中々止められるものではない。
このときばかりは猫にでもなったかのように、全身の関節を隈なく伸ばしてやる。

「お茶を淹れてきますね。緑茶でいいですか?」
「ああ、ありがとう。それで構わないよ」

席を立った椛に、今度は肩を回しながら霖之助は答える。
それに椛はこくりと頷いて、とたとたと流しへと向かっていった。
――思ったよりも凝っていた首を擦りながら、霖之助はついと壁にかけられた柱時計へと目をやる。
針の指し示す時刻は、ちょうど丑の刻を過ぎたばかりだ。
椛の家に着いてからもう四、五局ほど将棋を指しているが、陽が沈んで少し経ってから指し始めたことを考えると、一局にかける時間はいつもと然程変わらないくらいのようだ。
と言っても、いつもはこんなに連続で指すことは滅多にない。
一、二局でもそれなりに神経と体力を使う遊戯をこれだけ続ければ、如何に楽しいと言えど疲れがないと言えば嘘になる。

「――ぁ――む」

つい漏れ出そうになった欠伸を、どうにか噛み潰して飲み込んだ。
――こうして長い時間指してきた将棋も今の欠伸の原因の一つではあるが、感じているこの疲労の大部分は、朝のうちから山を歩き回っていて蓄積されたものだ。
普段は眠らなくとも問題ないはずの霖之助も、余りしない遠出の疲れから少々瞼が重くなりつつあった。
しかし、まだ欠伸が出る程度ではあるし、何より椛への約束を反故にしてしまった『埋め合わせ』の真っ最中でもある。
それに、椛がああも楽しそうにしているのを見ると、中断を申し入れるのも大分気が引けてしまう。
――まぁ、二、三日寝ないのは慣れてはいる。
いわんや一日をや、であるのも確かだ。
ちょうど椛がお茶を淹れてくれると言っていたので、それを口にすれば少しは眠気も醒めるだろう。

「……」

ふと何気なく、霖之助はぐるりと自分のいる場所を一周分、見やる。
そうして目に入るのは、当然椛の部屋の内装である。
ずっと対局に集中していたので然程気にしてはいなかったが、改めてこうして見てみれば、綺麗に整頓された家具や本棚や化粧台、それに同じく綺麗に並べられた、霖之助にも見覚えのある小物や雑貨が其処此処に目に入る。
――椛の自宅に誘われ、こうしてその部屋の中を目にするのは当然初めてだったが、何と言うか、普段の彼女の飾り気の無さらしからぬ、随分と女性的な装いが感じられる空間だった。
正直に言えば、もう少し無機質で殺風景なものを想像していたのだが、こうして見るに、霖之助の自室にはないものもそこそこ目に入る。
化粧台がその最たる例だろう。
普段の椛は哨戒が主であるせいか、余り化粧をしているようなイメージはなかったのだが、かと言ってそこに意外さはない。
寧ろ、多少なり身だしなみを気にしたりするのは、女性として十分に評価出来ることだ。
不要な時にまで不要な事をせず、必要な時に必要なだけそれを行えばいいのだから、その意外さだけを指して笑うなど以っての外である。

「……ふむ」

しかしこうして見てみると、意外と彼女の持ち物に自分が扱っていた品が多いことに気付き、ふと息を吐く。
例えば、本棚に収まっている定跡本には、見覚えのある背表紙が少なくない。
本棚自体はそう大きくないために、収まっている冊数は恐らく五十はないと見えるが、その半分近くは確実に見覚えがある。
自分に見覚えがあるということは、ほぼ間違いなく香霖堂で買っていった本であろう。
あとは、その本棚の上やすぐ近くにあるテーブルに並べられている雑貨たちもそうだ。
寧ろ、見覚えのある数なら小物の方が本よりも圧倒的に多い。
可愛らしくデザインされた紅葉の置物や、少し大きめの白狼のぬいぐるみなどは、椛が買っていった日のことも覚えているくらいだ。
――自分の手元から離れていった道具たちが、こうして新しい持ち主のところで大事にされているのを見ると、己の選んだ道に誇りと充実感が満ちてくるのを、霖之助は感じる。
同時に、道具を大切にしてくれている新しい持ち主にも、感謝に近い感情が湧いてくる。
道具は大事に使ってこそ、その真価を発揮させる。
こうして新しい主を得、その意義を全うしている道具たちは、さぞ幸福な事であろう。

「……あまり、じっと見ないで下さい。一応、綺麗にはしているつもりではありますけど……」

そう、言葉には出さずに感慨に耽っていると、いつの間にか湯呑みを載せたお盆を持って戻ってきた椛が、少し気恥ずかしそうに立っていた。
やはり異性に部屋の内装を詳しく見られるというのは、悠久の時を生きる妖怪でも羞恥を覚えるものであるらしい。

「ああ、すまない。見覚えがある道具たちがあったからつい、ね。……しかし、開き直るわけではないが、別に恥ずかしがる必要はないと思うが。僕から見ても道具を大事に使っているのが分かるくらいだから、寧ろ誇っていいくらいさ」
「そ、そうですか?」

ことり、ことり。
二つ分の湯呑みをすぐ近くのテーブルに置きながら、少しだけ声を上ずらせて椛は聞き返す。
その置かれた湯呑みのうちの一つを手に取りながら、霖之助はしっかと頷いた。

「ああ。道具を売った店主として、正直ほっとしているくらいだ。物持ちはいい方かい?」
「はい、それなりには。と言っても、普段が忙しくて買いに行く暇が余りないから、という理由ですけど……」
「理由はどうあれ、物持ちがいいのは美徳だ。是非これからも続けて欲しいな」
「あ……はい。分かりました」

言って、一口お茶を含む。
適度に熱く、渋味もあるお茶は、目を覚ましながら喉を滑り落ちていった。
――そう言えば魔理沙も、随分と昔に与えたミニ八卦炉を今でも使っていた事をふと思い出す。
多少無茶をさせている節もあるようだが、今でもなお霖之助の所に修理を依頼しに来るのだから、何だかんだで大切にしているのだろう。
そう考えれば、幽香の傘も似たようなものだろうか。
扱いの酷さでは幽香の方が段違いに上のようだが、それでも修理と改良を繰り返して今も愛用しているのだから、あれもあれで道具屋冥利に尽きると言えなくも無い。
本人達の前で言えば、更に無茶な要求をされるのが目に見えているので、決して口にする事はないだろうが。

「……まぁいずれにせよ、あまり女性の部屋を眺めるのは品が悪かったかもしれないな。道具屋の性かもしれないが、以後気をつけよう」
「あ、いえ。確かにちょっと気恥ずかしかったですけど、まさか香霖堂さんに誉められるとは思ってなかったので……」

ぱたぱた。
先程より幾分早く動く尾は、誉められた嬉しさからか、或いは気恥ずかしさからか。
それは分からないが、他人の部屋をじろじろ見るのはやはり良くない事ではある。
一歩間違えば、商人以前に一般としての教養や品格を疑われる事にもなりかねない。
気をつけるにこした事はないだろう。

「あ、これ、つい先日はたてさんから頂いたお饅頭です。よかったらお茶請けにどうぞ」
「ああ、ありがとう。早速頂くよ」

す、と椛が出してきたお茶請けを手にしながら、霖之助はもう一口お茶を啜った。
少し重くなっていた瞼の重みは、どうやらお茶の渋味と会話で幾分か紛らわせる事が出来たようだ。

――この分なら、朝までは持つか。

自身の経験に照らし合わせながら、そう霖之助は概算する。
――もぐり。
同時にお茶請けを口にして感じる、新鮮で心地よい甘みに、その概算を少し上方修正しておいた。
まぁ、概算はあくまで予定であるので、どれだけ実現できるかは不透明ではあるが、少しは実現に努力しようとは思う。
ただ誤算だったのは――この睡魔が、いつも霖之助が香霖堂内で戦っているそれよりも幾分か手強かった事だったが、それに気付いたのは、全てが終わった後だった。


 ◇ ◇ ◇


――じぃ、と盤面を見つめて、椛は思考する。

「……」

穴が空くかと思うほど盤面を凝視し、思考する。
こんな事を、もう今日のうちに何度繰り返してきただろうか。
一番大きな枠組みで見ても、もう六、七局は繰り返している。
一局の中では、更に百数回以上も繰り返している。
回数そのものは計算で簡単に導き出す事が出来るが、ではいざそれをやってみろと言われれば、殆どが途中で投げ出すだろう。
それほど、この思考は労力を使うものなのだ。
――だが、それも当然だろう。
己の思考のみならず、相手の思考をも予測して読み取り、まだ不確定な未来をも絞り込む。
その作業は、未来を見ることの出来ない者にとって言葉に出来ないほどの労苦を伴う。
無論、将棋とはそれすらも楽しみの一部ではあるのだが、膨大な回数を繰り返すと言うのなら話は別だ。
恐らくは修羅場を幾度も潜り抜けている熟練者でも、決してやりたがるものではないだろう。
それを繰り返している自分と霖之助は、そうそうはいない逸材ではないのだろうかと、椛は頭の片隅で思う。

「……うん」

――ぱちり。
一つ頷いて、駒を打つ。
まだ盤上の戦況は中盤に差し掛かったばかりだ。
今の戦況だけを見るのなら、椛の側が若干不利と言うべき状態ではあるが、勝負はまだまだこれからだ。
佳境にすら差し掛かっていない状態なのだから、多少の不利など直接の勝敗に関わるものでは未だない。

「……」

じぃ、と、なおも盤面を見つめる。
自分の手番を終えても尚、終わらないのが将棋でもある。
相手の打つ手を予測し、更にそれに対する受けをも数手先まで予測する。
それは別に必ず必要なものではないが、それを怠れば勝利など到底望むべくものではない。
故に、椛はそれを思考する。
手を抜けば、自分のこの我侭に付き合ってくれている霖之助に対しての侮辱にもなり得るし、せっかくの楽しみの機会を自ら放棄する事にもなる。
最善を尽くしてこそ、この対局を一つの『芸術』として仕上げられるのだ。

「……………………?」

そうして思考する事、暫し。
霖之助の手番なのに、随分と余裕を持って思考できることに、椛はふと疑問を感じた。
彼も思考型の指し方をするため、にとりと比べても相手番に思考する余裕は割とある方だったが、今回のこれは些か長かった。
本来の彼ならもうとっくに手を指している頃にも関わらず、対峙している彼に何の動きも無い。
それを訝しんで、ちらりと対面へ視線を向けてみると。

「――」
「……香霖堂、さん?」

一見、先程の椛と同じく、霖之助は盤面をじっと見つめているように見える。
しかし椛と決定的に違うのは――その目が、しっかりと閉じられていた事だった。

「香霖堂さん? あの、どうかしましたか?」
「――――」

再度声をかけるも、返事は微塵もない。
代わりに返ってきたのは、ゆらゆらと揺れる霖之助の頭だけだった。
――それを見て、椛はいつの間にか霖之助が眠ってしまっていたことに気付いた。
しかも、椛が至近距離から呼びかけてもなお、眠ったままのくらい深い眠りに、である。
思考がその生活の中心になっている霖之助にしては、その得意かつ趣味とも言える思考中に眠るなど、非常に珍しいと言わざるを得ない光景だった。

「……まぁ、でも仕方ないですね」

一つ、呆れたものではない、優しげな思いやりが混じる溜息を、椛は吐いた。
大体を見ていたから把握しているが、霖之助は昨日の昼、普段は動かない彼にしてはそれなりの距離を歩いていた。
それだけなら、無縁塚で仕入を行っているという霖之助には慣れたものだっただろうが、今日はそれに加えて精神的な疲労もあったはずだ。
そこに、この連続での対局が止めになったのだろう。
『埋め合わせ』をしている旨を考えれば契約違反とも取れる失態ではあるが、そもそも椛自身にも最初から無理を言っている感覚はあった。
もう対局そのものは幾度も行えているので、大分満足もしていたのだ。

「……ありがとうございました」

終局のそれと同様に、椛は座礼する。
まだ対局途中ではあり、その相手である霖之助からは何の返答はないものの、最初と最後の礼を怠る事を椛は善しとしない。
しっかりと相手に対局の礼を告げ、対局を閉じてからゆっくりと、椛は立ち上がった。

「とりあえず……予備の布団があったから、それに寝てもらおうかな」

自分の部屋に泊りがけの来客などそうあるものではないが、その可能性を捨てずに来客用の寝具は一つだけだが用意してはある。
彼にはそれを使ってもらうとしよう。
寝る場所は――ここでいいか。

「……よ、っと」

予備の布団を部屋の押入れから取り出し、未だに座ったまま船を漕いでいる霖之助のすぐ隣に、余計な音を立てて彼を起こさぬよう敷く。
敷き終えれば、後は彼をこの布団の中に運べばいいだけだ。
とは言え、彼にしては珍しいくらい深く眠っているのに、わざわざ起こして寝てもらうと言うのも、少々酷な選択肢だろう。
となれば、だ。

「……失礼します」

相変わらず眠ったままの霖之助に、礼儀として一つ断りを入れて、椛は座ったままの彼の隣に屈んで肩を組み、衝撃で起きないようにそっと立たせた。
彼は自分よりも遥かに長身で、それに比例して体重もそれなりにあるが、天狗である自分にはそんなものは殆ど関係ない。
ゆっくり、ただ起こさぬようにだけ留意して慎重に立たせ、同じように慎重にすぐ隣へと寝かせるだけだ。
人間とは違い、彼の体重を少しも苦にしない椛にとっては、何も難しい事はない。

「よ、っと……」

現にそんな『難しい事はない』行為も、予定通りそっと霖之助を布団へ横たわらせた事で、殆ど完了したようなものだった。
――そうして、何事もなく終わるはずだったのだが。

「――む――ぅ」
「ぅわふっ!?」

不意に寝返りをしながらそう呻いた霖之助の声と、その感覚は同時だった。
――決して刺激に強くはない尻尾を、まるで何者かに無遠慮に掴まれたような感覚。
途端に背中を駆け上る虫が這うようなむず痒さと、しかし極々僅かに感じる言葉に出来ぬ快感に、思わず変な声が出た。
それと同時に、背中が芯棒でも入ったかのように直立、硬直する。
来ると分かっていても首が竦むような刺激なのに、完全に気が緩んでいたところに襲い掛かってきたとあれば、一人の白狼天狗を擬似的なパニックへ陥らせるには余りにも十分すぎた。

「――――あ、わ、わ、わ!」

逡巡の間、驚きと形容しがたい刺激にその身を固らせていた椛だったが、ふと思い出したかのように顔を真っ赤にしながら、尾を振った。
昼間に木の上でしていたような、『ぱたぱた』などという可愛らしいものではない。
あらん限りの力でもって尾を振るい、自らの尾を掴む『何か』を叩き落とそうと、椛は必死だった。
そもそも、背後から人の尾を掴む輩なんて、殆ど全てと言っていいほど碌な奴はいない。
悪戯目的か、或いは白狼天狗が尾に弱い事を知っていての嫌がらせかはその時々によるが、どっちにしろ碌でもない。
寧ろ、発作的に後ろへ回し蹴りしなかっただけ、対応としてはまだ穏やかだった事だろう。
――しかしその刺激の主は、そんな『いつもよりかは』穏やかな椛の対応に、意外にあっさりとその手を離した。

「――っ!!」

尻尾を守るように背中に隠しながら、すぐさま椛は後ろを振り向いた。
通常なら、まさか自宅内に誰かが入ったのを自分が気付かないはずはないが、こちらに気付かれぬように侵入できるような力量を持つ輩なら、不幸な事に幾人も知っている。
しかもそういう腕が立つ輩に限って、悪ふざけでこちらをからかってくるような連中なのがなお性質が悪い。
もし仮に誰かの姿を視認したのなら、正当防衛という名目にそのまま飛びついて拳骨の一つでもくれてやろうかと思っていたのだが――。

「――あれ?」

予想外と言えばいいのか、想像通りと言えばいいのか。
振り向いたその先は、ただただいつも通りの自分の部屋があるだけだった。
誰かがそこにいた気配も、全く感じられない。
しかし、かと言って自分の尾を襲ったあの刺激が、まさか気のせいだったとは到底思えるはずもないのだが――。

――ぽすん。

「……え?」

やや遅れて聞こえてきた、何かが柔らかいものに落ちるような音。
つい、と音に反応してそちらへ目を向けてみれば――随分と見慣れた、特徴的な青と黒の衣装を袖に通した腕が、ぽつんと椛のすぐ足元に力なく伸びていた。

「……」

ただそれだけだったのだが――あれだけ慌てふためいていた頭が、急速に冷えていくのを椛は感じた。
彼の高い身長に伴い、自分のそれと比較してもかなり長い腕。
伸びきった状態である今だから分かるが、恐らくはすぐ傍にいた自分の尻尾を掴むのは容易いだろう。
――それに、霖之助は堂々と公言するくらいに、寒さを厭う性格をしている。
ここ最近は、夜になれば急激に寒くなるのが分かるくらい、冬の足音が近づきつつある時期だ。
将棋に集中していて気付かなかったが、この部屋も帰ってきた当初と比べれば、大分肌寒さを感じるくらいに冷えていた。
そこに、急にぴったりと寄り添ってきた自分以外の温かいものがあれば、つい夢見心地で手を伸ばしてしまうのは、あまり不自然な事ではないかもしれない。

と言うか、どう見ても自分たち二人しかいないこの場所で、もし第三者がいたとするならば。
それは神出鬼没と言われる幻想郷の賢者か、或いは以前ちらと小耳に挟んだ地底の妖怪のいずれかくらいしか該当しない。
そして椛自身は、その両者とも繋がりが殆どない。
まぁ、その地底の妖怪はどこにでもふらふらと現れるらしいが――捻らずに真っ直ぐ考えれば、下手人は今、目の前で珍しく穏やかに眠っているこの男くらいしかいないだろう。

「……はあ。もう、驚かさないで下さいよ。香霖堂さん……」
「――」

抗議の声を上げてみるも、その相手からの返事は微塵も無い。
当然だ。霖之助は眠っているのだから。
――の、はずなのだが。

「……ぅ……」
「わ、と」

再び自分へ伸びてくる霖之助の手から、慌てて尻尾を庇いながら一歩下がる。
そうして何も掴まなかった彼の手は、少しだけゆるゆると上げられて、すぐに力尽きてまた布団の上へと落ちた。

――狸寝入り、じゃないよね?

寝ているにしては随分と意思を感じられる手の動きに、自慢の目でしげしげと霖之助を観察してみる。
だが――やはりどう見ても、眠っているようにしか見えない。
見た目からもそうだし、聞こえる寝息も、彼が起きている時のそれよりも遥かに静かで、穏やかだ。
これで狸寝入りだったなら、彼はもう少し嘘を吐くのが上手いはずだ。
となれば、やっぱり。

「……今日は冷えるから、ですよね?」

そうだ。それ以外に理由などないはずである。
――ふと時計を見てみれば、時刻は既に寅の刻の終わりに差し掛かっていた。
日が短くなってきた今だからこそ、外はまだまだ闇の帳が覆っているが、夏だったらもう日の出が見えてもおかしくない時間だ。
そんな深夜とも早朝とも取れぬ時間帯なら、今の時期でなくとも冷えるに決まっている。
だから、霖之助は自分の体温以外の『暖かいもの』を求めていたのだろう。
そう考えるより外にない。
――そして、もしそういう理由で自分へと手を伸ばしたのなら、寧ろちょうどいいのではないだろうか。

「……」

とたり、とたり。
両足を僅か一歩ずつ前に出せば、すぐに霖之助が寝ている布団の上だ。
そこに立って、一つ、深く息を吸う。
何だか、いつもよりも心臓が五月蝿い。

――そうだ。そもそも香霖堂さんは、私とした約束をどういう形であれ、また反故にしたんだから。

深く吸った分、同じように深く息を吐く。
吐いてから、霖之助を起こさないよう、そっとその隣へと膝を付いて、ぺたりと座り込んだ。
普通は深呼吸すれば、ある程度は心拍数も落ちるというのに、相変わらず自分の左胸は五月蝿いままだった。

――だから、これはその残りの埋め合わせにしよう。私も、寒い時は寒いわけだから。

それは誰かが聞けば、きっと言い訳じみて聞こえた事だろう。
事実、椛自身もこれはさすがに詭弁だと思う。
だが、霖之助がどういう理由であれ、自分へと手を伸ばしたという事実は――何だか、自分に傍に居て欲しいという意思表示に思えたのだ。
無論、事実はどうだか分からない。
椛自身の勝手な思い込みである可能性だって十分にあるし、或いは霖之助が、単に自分を懐炉か何かのように思えたからそうしたのかもしれない。
まぁ、いずれにせよそんな事は瑣末な事だ。
仮に思い込みであっても、特に椛が謝るようなことはない。
霖之助が自分を懐炉か何かと思ってそうしたなら――自分が同じ事をしたって、責められる謂れはどこにもないのだから。

「……」

頭の頭巾を外して枕元に置き、めくれたままだった掛け布団を掛け直す。
枕は今霖之助が使っているものの一つしかないが――ちょうど良く伸ばされたままの彼の右腕があるので、せっかくだからそれを使わせてもらおう。

「……お休みなさい。香霖堂さん」

一つ、静かに呟いて、椛も霖之助のすぐ隣に横になった。
――ぶるり、体を覆う冷たさに、少しだけ震えた。
やはりこの時期になると、湯たんぽのような温めるものがない布団というのは、例え二人が共にいたとしても、入った直後は首が竦むような寒気を覚える。
これで一人だけだったなら、それなりの時間をこの寒さに耐えなければならなかっただろう。
――しかし、今ここにいるのは一人ではなく、すぐ隣同士で寄り添う二人だった。

「……わふ」

もそり。
やっぱり少し肌寒いので、いつもよりは大分薄い、古本と少しの黴の匂いに包まれた体温に、もう少し深く寄り添ってみる。
――自分より少し温度が低いのだろうか、霖之助の体は極々僅かだが、ひんやりとしたものを感じた。
『温まる』という目的において、どうやら彼の体温というのは余り便利なものではないのかもしれない。
だが、そこで逆に考えれば霖之助にとって椛は――再び自分に寄って来た、温かい懐炉に他ならなかったわけで。

「……む……」
「え? ……わ、わ」

冷たかった布団の中で、自分ににじり寄ってきた体温が心地よかったのだろうか。
眠ったままの霖之助は、再びこちらへと開いている左手を伸ばしてきた。
決して少なくはない身長差と格好から、自然と椛はかき抱かれたように、その腕の中に収まる。
流石にこの状況はまずいと、少しだけ迷って霖之助を起こそうとしたのだが――。

「……すぅ……」
「ぅ……はぁ……」

些かの邪念もなく、ただ穏やかに聞こえる霖之助の寝息に、思わず毒気が抜かれた。
それに――この腕の中は、さっきまで感じていた懐炉としての不便さとは裏腹に、思っていた以上に心地よくて。
結果、霖之助へと突き出そうとしていた胸の前の両手は、所在なさげに、かつ窮屈そうにその場に留まった。
――自分より大きい誰かの懐に包まれるというのが、こんなにも安心できるものだとは、椛は知らなかった。
例えそれが、戦闘の面では殆ど頼りにならないと思っている相手でもそうなのだというのは、はっきり言って驚愕以外の何者でもなかったくらいだ。
だが、どれだけ意外であろうが、どれだけ驚愕であろうが――この意外なまでの心地よさは、あまり手放したい類のものでないのだけは、確かだった。

「……」
「……ぅ……ん」

そんな心地よさがそうさせたのだろうか。
気付かぬうちに睡魔は、着実に椛の意識を根元から刈り取っていく。
ついさっきまで通常通り回転していたはずの思考が、徐々に徐々に停止を始めた。
目蓋はとうにその重さを増し――ついに外界から光を遮った。
すぐ頭の上から僅かに聞こえていた、異様に静かな霖之助の寝息も、ついに認識出来なくなった。

「……………すぅ」

そうしてついに椛の意識も、睡魔へと取り込まれた。
後に部屋に響くのは、二人分の静かな息の音であり、他に何も音はない。
暖を求め、自分より温かかった白狼天狗を懐に抱いた半妖の青年と。
――意識的だったのか、それとも無意識的だったのか、いつの間にかその半妖の背中に両手を回した白狼天狗の二人だけが、しっかりとその身を寄せて眠っていた。

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コメントコメント


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皆既月食こっちも見れました、綺麗ですね。どうも、唯です。

やっぱり椛は可愛いですね。こういう落ち着いた雰囲気がぴったりで見ていて和みます。
何かこう、ベタベタしてるよりは一緒にいるのが普通みたいな空気が漂ってると思うんです。

部屋に堂々と上がっていて、一緒の布団で寝てて、それでも本当にKENZENですねこの店主はwww
そして翌朝は「(途中で寝ちゃった)責任とって(夜まで将棋の相手して)下さい」ですね分かります。

今回も最高でした。私も頑張らないとだなぁ……

唯 | URL | 2011/12/11 (Sun) 00:05 [編集]


この後、ネチョ(ry

悶えました。
一緒に寝てもなお健全。プラトニックって素敵ですね…

| URL | 2011/12/11 (Sun) 09:42 [編集]


後半の椛がとてもかわいらしいですな^^
萌えです^^

| URL | 2011/12/11 (Sun) 22:24 [編集]


やっぱり椛霖は最高にあたたかいな!
椛そこ代われと言いたいし、霖之助そこ代われとも言いたい。
どっちの立場でも暖かくて気持ち良くて、安心するんだろうな。
朝、責任とると言い出す霖之助さんがいるかも……椛! チャンスだ!

のた | URL | 2011/12/11 (Sun) 22:47 [編集]


ついにここまで来たか
羊の皮を被った狼はこの後どうするのか?
さあさあ、期待してるぜ

dact | URL | 2011/12/12 (Mon) 20:23 [編集]


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| | 2011/12/13 (Tue) 21:58 [編集]


あれ非公開コメントになってもた、ごめん
公開してもいいです

猟奇王 | URL | 2011/12/13 (Tue) 22:00 [編集]


むはーー!椛むはーー!(床を転げ回るの図

おっと、失礼。
椛さんのあまりの可愛さについ悶えてしまいました。

しかし信頼と安定の霖之助さん
絶食系男子のあだ名は伊達じゃない。

らぷこ | URL | 2011/12/15 (Thu) 21:10 [編集]


 
 

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